『言語にとって美とはなにか』を読む④

ここ数ヶ月読み進めていた『言語にとって美とはなにか』を、ある程度自分なりにまとめてみます。

底本は角川ソフィア文庫版の『定本 言語にとって美とはなにか』(Ⅰ)です。

 

 

これまでの記事

『言語にとって美とはなにか』を読む① - ボツの宮殿

『言語にとって美とはなにか』を読む② - ボツの宮殿

『言語にとって美とはなにか』を読む③ - ボツの宮殿

「意味がわからない」について

言語にはまず現実のものを指し示す指示表出性があり、次第に現実から像を抽出してイメージを伝達する自己表出性を獲得していった。この二点が言語の本質だ。

ところで本質は何らかの方法でまた現実に反映されることになる。

言語においてまず考えられるのが、その言語の意味だろう。

 

言葉は何かを示している。

聞き手にとって意味がわからないものはあっても、話し手からして意味のないものは、何かを指示したり表出したりという言語の本質を欠いている。

 

「意味」について、言語学の立場からの議論は様々にあるが、吉本はここで、「意味がわからない」ということから逆説的に意味の意味に迫っている。

吉本が意味がわからないと形容されうる文章として例を挙げたのは以下の三通りである。(カテゴリ名は私が適宜付け足している)

 

1 話すものがいなくなってしまったために意味がわからなくなっている場合

同じ日本語の枠内でも、たとえば古語などはこの範疇に入る。

現代と通じる箇所があるからこそ、多少の類推はできるが、文法としてはわかっても単語の指しているものは、知識がないかぎりわからない。

ただし、何かを表している文章だということはわかる。

ときには、意味がわからなくても、何かしらの印象を受けることもある。

 

2 個々の言葉の意味はわかるが、容易に想像できない場合

比喩や直喩、それもかなり大胆に現実から乖離した表現がなされたとき、読み手は動揺し、その文章について「意味がわからない」と形容する。

吉本は、そのような表現を、小説だから、幻想だからで片付けることをよしとせず、先の本質から理解するべきだとしている。

そのような文章は、指示表出を下に、自己表出を貫こうとするために、擬事実を作り上げているといえる。

表現としては、現実から乖離している。しかしそれは嘘だ、誇張だで終わらせるべきではなく、その表現は作者の自己表出のための必然だった、と捉えるということだ。

 

3 何を指しているのかもわからない場合

2の発展系といえる。文章としてはあるし、読める。しかし、主語が大きすぎたり、抽象的すぎたりして、具体的な像を結びにくい。

読み手は「意味がわからない」と匙を投げる。しかしそのときにも、「意味がない」ということはない。読み解けないにしろ、何かしらの意味があるということは感じ取っているからだ。

もちろん抽象的な表現にも、意味はある。作者の意図があり、現実を突き放して描く意図があった。

自己表出性によって、現実に対する指示表出は覆い隠されているが、総体としてひとつの文章が成り立っている。

 

指示表出性からみた言語の総体の関係

これらの「意味がわからない」と形容される場合は、それぞれに理由が異なる。

指しているものを知らない、現実から乖離している、何を指しているか見当がつかない。

包括していえることは、どれも言語の「指示表出性」に関連しているということだ。

つまり、言語の「意味」は、この指示表出性とふかい繋がりがあるといえる。

 

指示表出性はどの言語にもある。

しかし自己表出性が、言語から現実へのストレートな指示を捻じ曲げる。

もちろん、自己表出性を含めて言語による文章は成り立っている。だから、現実から乖離した像も含めた総体として、言語の意味を捉える必要がある。

吉本はこのことを「指示表出性からみた言語の総体の関係」と表現している。

 

文章は言語から成り立っている。

小説でも詩でも、短歌でも、文章そのものの字句を追うだけでは、言語の一面しかたどれない。

すべての文章には作者の意図が備わっている。

例えば単なる風景描写にみえる表現も、作者の目、想像の方向性があり、選択がある。それらをたどることで、初めてその文章における言語の総体の関係を見ることができる。

 

自己表出性からみた言語の総体の関係

文章を書く人は、多かれ少なかれ、何らかの衝動があって文章を書いている。

生きるためなのかもしれないし、自らの考えを広く共有したいためかもしれない。

理由はいずれにしろ、文章には何らかの価値が付随しているといえる。

ここでいう価値は、レビューサイトにおける「この本は価値がある」「こんな駄文に価値はない」などとは異なる。文章の存在意義、その作者がその文章を書くこと、そのものの意義だ。

 

吉本は、先の意味の議論を鏡写しにする形で、この価値について表現する。

すなわち、「自己表出性からみた言語の総体の関係」が、その言語の価値となる。

 

たとえば、人はかなしいとき、「かなしい」といえば満足するだろうか。

そうはいかない。その人にはその人なりの世界との関係がある。その関係のうえで悲しみをもつ。

その人の「かなしい」には、このような関係性によって表出された、という経緯があるといえる。

 

この経緯は、価値の源泉となりうる。

誰も知らない表現とか、目新しさ、瑞々しさばかりがあればいい、というものでもない。

重要なのは、自ら考えるということだ。

自分の中から湧き出てきた表現には、その人なりの価値があるのである。

 

先の古語の例で、意味はわからないけれど読み手に伝わることもある、といった。

古語は、すでに失われた言葉も含み、すぐに飲み込めないことが多い。

しかし、現代に残る古語の痕跡や、日本語として読むときの言葉選びやリズムから、言語化できない情感が伝わってくることがある。

その表現の自己表出、指示表出を乗り越えて伝わってくる何かがある。この何かが、言語の価値だといえる。


参考文献

≪書籍≫

『定本 言語にとって美とはなにか』 角川ソフィア文庫

 

おわりに

記事ひとつ1000~2000字程度でのんびり進めていこうと思います。

 

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