『言語にとって美とはなにか』を読む①

ここ数ヶ月読み進めていた『言語にとって美とはなにか』を、ある程度自分なりにまとめてみます。

底本は角川ソフィア文庫版の『定本 言語にとって美とはなにか』(Ⅰ)です。

前半200ページ程度、論考の中心部分をざっくり整理するところまで、折を見て進めます。

『言語にとって美とはなにか』とは

『言語にとって美とはなにか』は、吉本隆明による、書かれたものとしての文章から人がどのような美を感じ取っているのかを考察した論考である。


吉本隆明は思想家だとか文芸批評家や詩人などと紹介されることが多いが、ここでは言語学者ではないことに注目したい。
『言語にとって美とはなにか』の序盤は、言語学の論述を引用して話が進められていくが、この論考では言語学を言語のもたらす美を解説するための足固めとして利用している。
論考の同伴者として各種言語学論を持ち出して、独自の視点と比較検討し、悪い言い方だが、相手方の行き届かない点を指摘して、独自の美の解説へと繋げていく手法を取っている。

 

ここでいう吉本の独自の視点とは、言語及び文章をその「指示表出性」と「自己表出性」の二つの織りなす綾と見なすことを指す。
この二語自体、明確な定義がされているとはいえず、議論の分かれるところではある。
とはいえ、この二つがないと論考を読み進めることはできない。


論考に踏み込む前に、この二つの性質について、私なりの解釈を示しておく。

 

指示表出性と自己表出性

「指示表出性」とは、その言語が実際に何かを表している度合いを言う。


例えば、ある原始人が初めて海を見たとき、彼はその感動を「う」という一語で表した。彼にしてみれば、今目の前に広がっている海こそが「う」であり、その他のものは「う」ではなかった。ここに示している「う」という一語は。指示表出性の高い言語だと言える。


この原始人が、住処に帰って家族や友人に「う」を見たときの感動を伝えたとする。
話し手である原始人は、実際に見た海を想像し、そのイメージを「う」という言葉に重ねている。
彼のイメージがそのまま相手に伝わることはない。しかし、彼が聞き手を海へと実際に連れていき、「う」という言葉とともに伝えていくことはできる。

聞き手は「う」を理解し、別の聞き手へと「う」を伝えていく。


海を知る人は、それぞれが抱いた海を「う」という言葉で示す。

このような現実の体験としての、言語とイメージの結びつきが積み重なると、「う」という言葉に海のイメージがやがて自然と重なるようになる。
 原始人たちは、実際に海を前にしなくとも、「う」の一語で当該の海を示すことができるようになる。


このときの海は、像としての海であり、すでに最初の原始人が示した海のイメージとは乖離しているが、人々の間で伝えられる分には申し分ないものとなっている。

 このように、言語が現実から乖離することを「自己表出性」という。

現実からの乖離の度合いが大きいほど、自己表出性が高いと言える。

 

吉本はこの二つの性質を、「指示表出性」は「現実の反射」であり、「自己表出性」は「意識のさわりをふくむ」ようになったことだと表している。

 

元々言語は、現実の全てを反映することはできない。

一度に話せる言葉は一語だけであり、目に見えるもの全てを指し示すことはできない。人は相手になにかを伝えるときに要点を絞らざるを得ない、ということだと思う。


言語には「指示表出性」と「自己表出性」の二つの性質があることになる。

『言語にとって美とはなにか』は、この二つを根拠にして、言語の性質から、様々な文章様式のもたらす美を解読していくことになる。


参考文献

≪書籍≫

『定本 言語にとって美とはなにか』 角川ソフィア文庫

 

おわりに

記事ひとつ1000~2000字程度でのんびり進めていこうと思います。

 

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