『言語にとって美とはなにか』を読む②

ここ数ヶ月読み進めていた『言語にとって美とはなにか』を、ある程度自分なりにまとめてみます。

底本は角川ソフィア文庫版の『定本 言語にとって美とはなにか』(Ⅰ)です。

 

前回

『言語にとって美とはなにか』を読む① - ボツの宮殿

自分対世界という関係

前回の記事では、言語が持つ二つの性質、現実にあるものを示す「指示表出性」と、その現実から乖離して本質を示す「自己表出性」について整理した。

『言語にとって美とはなにか』の中で、吉本は言語について、「人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質」だと言い現わしている。(p52)

 

今、あるひとりの人間の前に、牝牛がいたとする。

人間にとって、牝牛は食用かもしれないし、出荷のためや番わせるために育てているのかもしれない。何らかの関係があり、目的があって、牝牛と一対一で立ち向かっている。

このとき、人間は牝牛のことを〈牝牛〉と呼ぶ必要があるだろうか。

もしも、人間が他の誰とも関わらずにいるならば、〈牝牛〉とわざわざ指し示す必要がない。今、目の前にいる牝牛と関係し、ひとりでに終えてしまえば、それで事足りる。

 

この人間が、その牝牛と別れたのち、別の牝牛と出くわしたとする。

人間が〈牝牛〉という言葉を知らなければ、牝牛同士を共通項で括り、〈牝牛〉という呼び名を与えるという意識がなければ、人間は〈牝牛〉という言葉を使わない。新しい牝牛は先ほどとは別の何かでしかない。

 

世界が見えているものだけで事足りていたならば、人は言語を必要としない。

自分自身を〈自分〉と指し示す必要さえない。自分自身を〈自分〉という言語で括りだし、〈他人〉と比較する、という意識がないからだ。

しかし、人間は多かれ少なかれ、時代を経るにつれて、世界と関わりを持つようになった。

目の前に見えているもの以外を見て、括って、取り扱う。

この意識こそが言語の本質だ、ということだと思う。

 

時代という縦糸、環境という横糸

そこからさらに、私の解釈を交えて、吉本の考えを追う。

 

世界は、連綿と続く時代と、同時代に広がる社会、この二つで構成される。

縦糸と横糸で考えてみると想像がつきやすいと思う。時間が織りなす縦糸と、空間が織りなす横糸で、世界は成り立っている。

 

ある言語は、時代を経るごとに発展してきたと言える。

最初はただの感動を表すだけだった言葉が、次第に文法に従って意思を伝える道具となった。

ルールは洗練され、例外が生まれ、その例外さえも取り込んで、より手広く意識の伝達を援けてくれるようになった。

 

一方で、言語がまず指し示すのは現実の対象物である。

パソコンもスマホもない時代に、〈パソコン〉や〈スマホ〉という言語は、対象物と結びつく形では存在しない。

代わりにこの十数年の間でも数多の言葉が生み出されては死んでいった。流行の廃れもあれば、親しい間柄でのみ通じる愛称や合言葉などもこの範囲に含まれる。

 

前者は、人が現実の世界から乖離する流れに沿う。自分の意識を表すために、先人たちの文法や語彙を頼りに、自分なりの方法で自己表出をする。

この自己表出が強まる方向に、文学的な表現が成立する。

 

後者は、現実に付き従っている。何を指し示すのかは、環境によって移ろいゆく。環境に適応する形で、指示表出をする。

この指示表出が強まる方向に、生活語が存在する。

 

次回について

正直このあたりはややこしい。

同じことを繰り返しているようにも思う。

 

結局のところ、言語には指示表出性と自己表出性の二つがある、というのが要点だ。

次に書くのも、このテーマの一形態なので、面白いがややこしいところではある。


参考文献

≪書籍≫

『定本 言語にとって美とはなにか』 角川ソフィア文庫

 

おわりに

記事ひとつ1000~2000字程度でのんびり進めていこうと思います。

 

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