R401 第四稿

R4年1作品目の第四稿です。

 焦げ茶色のカラメルが小鍋の底に広がっていた。ふつふつと泡が立ち上り、弾けて甘い香りを放つ。そろそろいいかなと里紗が言い、小鍋を火から下ろした。iPhoneを構えたままの芳樹の喉が鳴る。無意識の動きだった。
「いい音」
 つぶやいた里紗と目が合って、含み笑いが重なった。
「二つでよかったですか? サークルの方々へ、お土産とかは」
「いやいやそれは、要らないですよ。悪いです。こちらがお願いしてばかりなのに」
「そうですか。では、二人占めですね」
 里紗は指を二本立てて、ハサミのように動かした。笑うと左の頬に笑窪ができる。その窪みに芳樹が惹かれているうちに、里紗はカラメルを耐熱容器に注ぎ、牛乳を量って、空になった小鍋に注いだ。動作は常に芳樹の動作が捉えている。里紗との会話や、顔の映る場面は、残念ながら使用できない。
 必須条件は、主演の女子と似ていること。手から腕までは最低限、見間違えるほどでないといけない。小鍋、量り、軽量ビーカー、お皿や食器等は指定のものを使うこと。映像研究会の当時の会長が求めたことは、概ねその二つだ。完成した映像のことを、芳樹はあまりよく憶えていない。
 もう十年前の話になる。
 映像研究会のメンバーでかき集めた映像は編集で組み合わさり、学生を対象にしたコンペに提出された。結果は出なかった。予選を通らなければ、講評ももらえない。人に見てもらえた感触もないまま会長は卒業という名の引退をした。会長に協力的だった他の会員も、全員が同じ道をたどることになった。
「いい映像ができるといいですね」
 言いながら、里紗は完成したプリンを小皿に載せて芳樹に差し出した。小さな宝石のような表面に、二人の頭の影が映っていた。
「そうですね。きっと」
 スプーンの先が差し込まれ、プリンの本体から切り離される。小刻みな揺れがおさまるのを待って、口に運んだ。ほんのりと甘い味わいを目を閉じて堪能した。美味しかった。口に出して、何度も繰り返した。
 映画研究会は、創作する側と観賞する側で態度が二分されていた。二つのサークルを作ればいいのに、両者ともに、人が集まらないことを恐れていた。人数不足なら廃部になるしかない。恐れは停滞を生んだ。居心地のいいサークルと言えなかった。映画が好きという一点だけで集まった寄り合い所帯。そんな場所に身を置いて、よかったことは何かと問われれば、芳樹は真っ先に里紗の名前を出していた。少なくとも、会に所属していなければ、里紗に会うことはできなかった。料理サークルという、縁のない集団に属していた里紗と会うきっかけをくれた。それだけでも価値がある。半ば冗談で、半ば本気で、芳樹は口にしていた。

   〇

「これってつまり、他人事なんですよね」
 その声は里紗の部屋から漏れ聞こえてきていた。怒鳴る一歩手前の、強い主張を孕む声だ。芳樹は洗濯物を畳むのをやめて、廊下に出た。里紗の部屋は、扉が少し開いていた。はあ、と芳樹は息を吐いた。大声を出すほど抑えきれなくなったのかと、心配になっていたのだった。扉は芳樹が夜食のおにぎりを運んだときに閉め損ねたものらしい。ドアノブに手を伸ばしたときに、再び里紗の声が聞こえてきた。
「この人の今まで、こんな風に生きてきた。その半生が、行動するときの基準になる。これくらいのことは、もちろん最低限、理解する必要がある。でも、眺めてばかりではだめなの。その人について考えれば、知識はつく。解説することもできる。でも、その人そのものになることはできない。人を納得させる演技をするなら、真剣に自分とそのキャラクターを擦り合わせること。これが一番大事なんです。それができていない限り、抜け殻のような演技になるんですよ」
 勢いがつきそうになると、声を潜めて押さえ込む。里紗は感情を削いでいるようだった。言葉のどこにでも導火線があり、いつ破裂するかわからない。
 里紗の深いため息が聞こえてきたのをきっかけに、芳樹は部屋をノックした。
「どうぞ」
 かすれた声が聞こえてくる。里紗は背を向けていた。暖色の穏やかな灯りの下で、パソコンのモニターとiPhoneの周りだけが青白く照らされている。混じり合わない光の中で、里紗は黒いウールの部屋着姿で机に突っ伏していた。
「撮影は終わった?」
 芳樹が里紗に近づく。おにぎりを包んでいたラップは机の端に追いやられていた。芳樹はそれをつまんで、手の中でくるりとまとめた。
「まだ。オチまでの流れ、考えないと」
「考えてから撮るんじゃないの?」
「撮りながらの方が自然になるの。ああ、さっきのさ、声大きくなかった? 大丈夫かな」
「平気だよ。これくらい。たいしたことじゃない」
 芳樹は里紗の肩の膨らみをそっとなでた。里紗は頬についた髪を後ろへ払い、iPhoneに手を伸ばした。カメラは依然として里紗を映している。画面に映る赤いボタンを押せば録画再開され、里紗はオチまで一気に話してしまうだろう。iPhoneの画面はパソコンにも映し出されていた。話したことはすぐデータとして保存され、編集可能な素材となる。
 自分を素材に、自分の手で動画を作る。テーマは映画解説。そんな里紗の趣味の活動がこの半年の間続いていた。
 里紗が利用している動画投稿サイトでは、同じ投稿者の動画群を指してチャンネルと呼ぶ。チャンネルごとのテーマを定めて公開する人も多く、ごく少数だがその動画に付随する広告料金で収益を上げ、生計を立てている人もいる。
 里紗が動画投稿をしたいと言ったとき、芳樹はこの収益が目的なのかなと思った。何も生計を立てるまでいかなくとも、副業としてチャンネルを開設する人は、芳樹の知り合いにも何人かいた。収益化しないと聞いてまず驚き、そのチャンネルのテーマが映画と聞いてさらに驚いた。
「大丈夫?」
 いろんな疑問が湧く中で、芳樹は最初に尋ねた。便利な言葉だと、後になって思った。諸々の事情を踏まえ、心配なときに使う。
「大丈夫だよ、きっと」
 その後、編集を手伝ってと言われ、芳樹は承諾した。断る理由はなかったし、里紗の助けになれるなら、うれしかった。
 まだ作業をするという里紗を置いて、芳樹は部屋を後にする。ドアを閉める直前に見た里紗は、パソコンの画面の光に包まれていた。そのまま覆い隠されてしまいそうな気がした。録画が再び始まる前に、隙間のないように力を込めて、芳樹は扉を閉じた。
 映画について。俳優や女優の演技について。映画の舞台背景について。里紗が語る内容は様々だ。語る動画を選ぶのは里紗自身だが、その多くが大学時代に芳樹と見た映画であることに、芳樹も気づいていた。話している内容の中には、芳樹が里紗に聞かせていたものもある。里紗を映画好きにしたのは自分なのだろう。そう思うと、芳樹は笑っていいのか、泣いていいのかわからなくなった。
「就活はもうしない」
 大学四年の夏に、里紗は芳樹に面と向かって言った。採用面接が立て込んでいる芳樹は、お互いのスケジュール確認のために理紗に声を掛けた。なにげない会話のはずだった。理紗の手にした手帳は、書かれていたはずの日程が黒い線でもやのように塗りつぶされていた。
「舞台に立ってみたいんだ。それでいつか、映画にも出てみたい」
 理紗の目は輝いていた。普段の穏やかな里紗からはかけ離れた、芳樹の知らない力強さを放っていた。芳樹は言葉を探した。考えないで何かを言うことは許されていない。そんな気がした。
「わかった。それが理紗の夢なら、僕も応援するよ」
 空気が軽くなった。裏を返せば、それほど警戒されていた。正解を選んだと重い、芳樹は安堵した。
 自分は理紗の味方でいたい。その思いは本心は果たして、本心だったのだろうか。十年が経ち、三十代を迎えた芳樹は、時折考える。恐ろしい答えが返ってきそうで、今まで深掘りすることを封印していた。
 未来は白紙の地図だと、里紗と一緒に見ていた映画で語られていた。古い映画でみたことがある。理紗と一緒に見たこともあった。声高に叫ぶメッセージに胸を打たれていた。今見たら、鼻で笑ってしまうかもしれない。余計な一言を添えてしまいたくなる。未来は白紙かもしれないが、そこに自由に絵が描けるわけではないのだと。 

 照明が灯されて、黒い画面がスクリーンだとわかってくる。折り畳みのソファに腰掛けた観客たちが拍手を送る。ここ数日、何度も見てきた光景の総決算だ。拍手は一段と大きく、長く続けられた。機械音とともに自動的に幕が閉じられて、壇上に男が現れる。豊かな白髪を後ろにまとめた背の高い男。長谷川さんは、この小劇場の経営者だった。
「当劇場は半世紀にわたり、この町で愛されてきました。元はといえば映画好きが講じて始めてしまったこと。今まで地域の方々に愛されて、どうにかここまで続けて来れました。次代に引き継げないのは悔やまれますが、これも時代の流れ。募る話はありますが、とても本日中には語り尽くせません。上映後の余韻を抱きつつ、速やかにご退出。これが長年の、当劇場の締めの言葉でありました。私もその言葉にあやかります。長年のご愛顧、ありがとうございました」
 長谷川さんがが頭を下げる。今一度、拍手が沸き起き、先ほどよりも長い間、鳴り響いていた。
 半年前に、長谷川さんは店を閉める予定を打ち明けた。数少ないスタッフと、芳樹を含めたアルバイトの数名に向けて、社用のメールと直接の言葉で二回、同じ内容が伝えられた。聞き返すことも、問いただすことも、思いとどまらせることもできなかった。長谷川さんの意思は固く、建物の引き渡し契約も早々に済ませてしまっていた。
「どうして今日で終わってしまうんですか?」
 足繁く通われていた観客から、こんな質問が、スタッフやアルバイトの見境なく投げかけられた。そんなときは長谷川さんを呼ぶ。呼んでいなくても、自分で耳にした範囲では駆けつけてくれる。
「本当に申し訳ありません。厳しい経営をやりくりしていましたが、映画を観る人も減り、感染症も続いています。限界に達してしまいましたということで、どうぞご理解ください」
 頭を下げる長谷川さんを見ると、誰もが言葉を発せなくなる。同情の言葉を掛けて、観客は去っていく。その姿が見えなくなってから、長谷川さんはようやく顔を起こす。そのやりとりが毎回丁寧に繰り返されていた。
 その日の興業が終わり、観客もみな帰って行った。業務は修了した。アルバイトとの契約は今日で終わり、三月の末に社員総出の後片付けをして、この小劇場は跡形もなくなる予定だった。
「経営難なのはわかっています。でも、突然やめられると、正直困ります。私、この劇場好きだったのに」
 アルバイトのひとりが言う。同調する声が続く。
「私も続けたかったんですよ。でも、仕方ありません。経営難ですから」
 観客に言ったのと、同じ理由だ。流行病の影響で、小劇場に限らず、ここ数年は個人経営の飲食店などで閉店が目立っている。もとより映画を観る人が減っている中での大きな打撃だった。
 建物の管理会社からは三月中にきれいにするよう言われているらしい。まだ三月の上旬とはいえ、急がないと時間はなくなる。後腐れなく、すべてを片付けようと、長谷川さんが号令を掛けていた。
「僕もここ、好きでしたよ」
 帰り際に、長谷川さんに伝えた。こればかりは伝えておきたかった。
「佐原くんか。君も長かったな。学生時代からだものなあ」
 懐かしむように、目を細めて店長が言う。思い出が蘇っているのかもしれない。芳樹もまた、過去を振り返る。
 小劇場の話を最初に聞いたのは、大学の映画研究会だった。時代も流行も気にせずに、知る人ぞ知る映画を流し続けている、時間の流れが止まったかのような映画館。一度目は研究会の仲間同士で言った。試行錯誤の後が観られる設備や、映画の話しかしない観客たちに囲まれる体験は、多分に刺激的だった。二回目は里紗と言った。三回目以降も、基本的には彼女と一緒だった。
「仕事をまた失わせてしまって申し訳ない」
 長谷川さんが芳樹の肩に手を置いた。
「気にしないでください。映画に関われて、よかったです」
 長谷川さんの手を肩から離すと、自然と握手をする形になった。長谷川さんの手は植物の幹のような手触りがした。
 小劇場の入り口から外へ出た。時刻は六時を迎えていた。宵の口だ。地方都市の駅前通りは人混みに溢れていた。雨風にさらされて傷の目立つようになった、ガラス扉の中に、今日上映したイタリア映画のポスターが貼られていた。俳優の男が顔を歪めている。祖父から鍵を託された青年が、国中を巡って祖父の思い出の地をたどる旅に出る。そんな内容だった。失う感動はした。普段は上映する映画を観客のアンケートなどを参考に選ぶが、この映画は長谷川さんの推薦だった。
「最後のわがままです。これで最後、やりたいことも、これでおしまい」
 長谷川さんがウインクしていたのを憶えていた。
 小劇場を閉めることを、長谷川さんはスタッフの誰にも相談しなかった。決意の強さの表れのようだと、芳樹は思う。やりたいことをやりきって、自分のタイミングで終わりにする。それはとても、恵まれたことなのかもしれない。
「佐原さん」
 ふと声が掛かり、芳生は顔を上げた。グレーのダッフルコートを着た青年がスマホを持ちながら、手を上げて笑っていた。
「久住くん」
 近所にある大学の学生だ。小劇場にはよく来ていて、年が比較的近い芳樹と話す機会も多々あった。里紗の動画を薦めたこともあった。歳の離れた、映画を通じた知り合いだ。
「今日、劇場に来ていたっけ?」
「いえいえ。行けませんでしたよ。サークルの用事は外せませんから」
 映像制作のサークルだと、久住くんは話していた。映像と一口に言っても、スマホで撮影する動画や、ミュージックビデオを想像する人もいる。だから内部は分裂しまくりだと、久住くんはよく笑って愚痴を言っていた。
「佐原さんこそ、仕事もう終わりですか?」
 久住くんが一歩近づいた。酒の匂いがつんと芳樹の鼻を差した。顔をしかめそうになる。それも失礼かと重い、真顔を装った。
「うちの職場は、元々そういうのあまりないから。花は贈ろうって話になっているけど」
 仮に餞別の会があるならば、芳樹は行くつもりだった。引っ越しをする長谷川さんを邪魔しないようにするとなると、タイミングが難しい。このままうやむやになっても、かまわなかった。多分、形式に関わる人は、あの職場にはほとんどいなかった。居心地の良かった理由の一端だ。
「もしあったら、来るかい?」
「いやいや、それこそ部外者ですよ。気まずいです」
 酒の匂いはする。でも久住くんは、礼儀を崩さなかった。若干ふらついているのが気に掛かり、芳樹は駅まで付き添うことにした。
 日が暮れるにつれて、商店街は賑わいを増している。お店の明かり。看板の赤いサイン。様々な光が混じり合い、暗闇を染めていた。酔った人々の喧噪が、どこか遠くの出来事のように感じられた。
 久住くんと横に並んで、最近観た映画の話や、小劇場の思い出話をした。話題はぽつぽつと上がり、きちんと火がつかないまま、線香花火のように消えていく。
「今日でサークルは終わりました」
 駅が見えてきた頃になって、久住くんが言った。見返すと、二歩ほど後ろで、久住くんは空を仰いでいた。
「終わりって、活動が?」
「そうですね。僕以外の全員がやめましたので」
「それはなかなか、壮絶な」
 芳樹は驚いていたが、久住くんに慌てた様子はなかった。動きは少なく、静かで、微笑みさえ浮かべていた。
「元々映画を撮りたいって言ってたの、僕だけだったんです。一人じゃ映画はできないから、みんなに無理矢理手伝ってもらってました。でも、無理でした。まとめきれませんでした。いいんです。僕が悪いんです。みんなを困らせた罰なんです」
 誰に向けていうのでもないのだろう。通行人が久住くんに当たりそうになって、舌打ちをした。久住くんは妙な笑い声を漏らしていた。芳樹は久住くんを通路の端に引っ張った。店と店の間に佇む電柱に、久住くんはもたれかかり、深く息を吐いた。待ってなと伝えて、、自動販売機で天然水を買って来て、彼に与えた。
「おごりだから」
 押しつけながら言う。久住くんは一口を含み、景気よく喉を鳴らした。発作的な笑いが少し収まって、顔の微笑みだけになり、やがてそれも薄れていった。青ざめているとはっきりわかった。
 いつもなら帰宅している時間だと気づき、芳樹は里紗に、知り合いを介抱してますとメッセージを送った。里紗からの返事はないが、既読のマークは確認できた。「佐原さん」と、久住くんがか細い声をかけてきた。
「里紗さんはどうして動画を消したんですか?」
 久住くんが何の話をしているのか、すぐにはわからなかった。
「どういうこと?」
 尋ねると、逆に驚かれた。
「昨日からチャンネルの動画が見られなくなってますよ」
 頭が揺さぶられるようだった。iPhoneの画面を開き、ブックマークから里紗のチャンネルにアクセスする。再生不可を示すアイコンが、動画のあるべき場所に並んでいた。「もしも何かの手違いなら、復活させてくださいよ」
 呆然としている芳樹に、畳みかけるように久住くんが言った。青い顔に精気が戻りつつあった。
「里紗さんの動画を見ていると、スカッとするんです」
「そんなに良かった?」
「ええ、まあ。悪いところは悪いってはっきり言ってくれるところとか。結構口調は強いけど、共感することが多かったです。上手く言えないけど、熱がありました。今の僕らに圧倒的に足りないものです」
 そうなんだろうか。芳樹は思う。里紗が話していたことは、かつての自分が話していたことも含まれている。自分には熱があったのだろうか。喉が鳴った。質問の言葉は唾液とともに押し込んだ。
「事情は、聞いておくよ。でも、強要はしたくない。里紗の動画は、里紗のものだ」
 熱いですねと久住くんは言う。それきり会話はまばらになった。回復した久住くんは、芳樹に礼をいって、駅へと歩いていった。
 芳樹は商店街を逆に歩き進んだ。宵の口はさらに深まっている。店先の看板や客引き用の旗には春を告げるメッセージが並んでいた。新生活を応援したり、新しいことへの挑戦を促したり。夢をカタチにしようという、和菓子屋ののれんを見かけて、立ち止まった。ちょうど閉店したらしく、店員のお婆さんがシャッターを下ろしているのをしばらく眺めていた。お婆さんと目が合った。思いの外澄んだ目で首を傾げられた。芳樹は頭を下げて通り過ぎた。しばらく進んでから振り返った。お婆さんはもういない。シャッターは閉じられていた。夢の文字もすでに見えなくなっていた。

 小学生の夏休みに、芳樹は初めてひとりでレンタルDVD店に入った。親の会員証が使えるのか不安が募り、緊張もしていたが、会計はスムーズに修了した。返却期限を頭にたたき込んで、浮かれた足取りで自宅へと帰った。両親がともに仕事でいない日は、リビングの大画面のテレビを占領できる。部屋の明かりを消して、映画館さながらに作品を堪能する。娯楽の少ない街の、友達作りの苦手な少年。それが当時の芳樹だった。
 誰かと遊ぶことを苦手だった。それでいて、一人でいる時間で何もしていないと暇でしょうがなかった。映画はその暇を埋めてくれた。暇を持て余している自分のことを忘れることができた。自分以外の人間のことを考えさせて、知らないことを教えてくれて、気づかせてくれた。自分以外にも世界が広がっていると、知ることがうれしかった。わからなかったことは調べて、それが募り募るほど、奥行きを感じられるようになった。
 将来のことを真面目に考え始めたのは、高校生になってからだった。進路選択に必要だと言われて、仕方なく、悩んだ。大学には行ってみたかった。働きたくなかったという意味合いの方が強かった。そうして選んだ大学で、映画研究会に所属していた。研究という名目の、映画好きの溜まり場だ。
 授業の空いている時間帯に、部室に行けばたいてい誰かがいて、最近見た映画の話や、おすすめの監督、脚本なんかを教えてくれる。芳樹の方からも話題を出して、盛り上がることがあった。高校生までの生活では得られなかった充足感があった。わかっていなかったこともあった。
 映画が好きを通り越した人が、芳樹に見える範囲でも数名いた。その奥にさらに大勢の、本気で映画を自分のものにしようとしている人たちがいた。自分で映画を撮影したり、舞台に出て活躍できるように活動したり。同年代の俳優や女優の名も聞くようになった。
 この世界には、好きなことに積極的に関わろうとする人たちがいる。そんな発想を、自分はついに持つことはなかった。気づいたときには、とっくに時間が過ぎていた。
 大学時代は、映画を作りたがっていた同級生に誘われて、映像制作の真似事をしながら過ごした。その活動は楽しかったが、仕事にしようとは思わなかった。就職を探した。同じ頃に、付き合っていた里紗が女優を目指すと言い出して、内心怖くなった。芳樹が諦めた夢を追いかけようとする彼女は、ひたすらまぶしかった。里紗は親とももめたようで、バイトをしながら専門学校に通うと言い張っていた。芳樹は里紗を支えることにした。夢を観る前に諦めた自分にできることをしようと思った。働いて稼いで、里紗の夢を叶えること。それが自分の人生だと、思うようにした。
 芳樹が就職したのは、食卓に並ぶ調味料の会社で、入社前はどこかの工場で働くのだろうかと漠然と考えていた。
 配属された営業部署では、都内をいくつかのブロックに区分けしていた。担当ブロック内の主要なお店を回り、並んでいる商品をチェックする。次回の卸の数量や傾向をチェックするためにだ。ブロックごととはいえ、販売店の数はとにかく多い。足をいくら動かしても終わらない。しかし、顔を出さないと誠意が足りないと言われてしまう。誠意なんてものが見えたことがないのに、それがないと業務に支障が出る。営業は、流通の入り口だ。販売口がなければ何を作っても無駄になる。部長に何度も、怒鳴り気味に言われた。損害の規模を考えろ。考えたら泣き言は言えなくなる。そうだろうと、思い込まされた。
 いくつもの顔を見た。食品の会社に勤めて、人間の顔ばかり見ることになるとは思わなかった。ほとんどの営業先の担当者は、真顔か、疲れた顔をしている。不機嫌なときもある。それに対して、営業に求められる顔は笑顔だけだ。不平不満を顔に出していたら一発退場となる。芳樹たちは、笑顔でいることを強制され、訓練させられた。表情筋を鍛えるために、口の中で舌をぐるぐると回したり、鏡の前で口角を持ち上げたりもした。トレーニングを欠かさなかった。アンガーマネジメント、メンタルトレーニング。自分は人よりも繊細なのかもしれないと、自己啓発書を漁って思い至った。本は解決策を提示している、ように見せかけて不安をあおっている。そのように気が付いたときには掛け布団を持ち上げる気力もなくなっていた。
 会社を五日、無断欠勤した。社会人失格だと思った。連絡はした方がいいという里紗の説得もあり、比較的温厚だった課長と連絡を取って、部長と面談をした。怒られることはなかった。引継ぎ書を必ず用意すること。その最後通達を全うして、会社から手を引いた。それからしばらくの間、自分の部屋の天井を見上げて過ごした。
 職を失っても、やりたいことは思い浮かばなかった。壊れた心は暇さえあれば芳樹自身を罵倒することに明け暮れる。時折、一緒に暮らしていた里紗が声を掛けてくれた。その声に芳樹はすがった。動くのも億劫な体が、唯一その声を聴くことで癒されていた。
 里紗は毎日、芳樹と併せて二人分の直色の食卓の準備をした。日中は外出し、夜になるとまた食事を作った。眠る前に洗濯も掃除も済ませていた。手際よく動き回る里紗を見ているうちに、芳樹の内心はうずいた。最初は掃除から始めた。自室から始まり、リビングやキッチンにまで手を出した。里紗に礼を言われると、次第に自身を取り戻した。新聞情報誌で、近所の小劇場のバイトを見つけたのも里紗だった。これならきっと続けられると背中を押されて、外に出る勇気をもらえた。 芳樹の環境は、里紗によって整えられていた。あまりにも自然に、何の不思議もないくらい丁寧に作られている日常に、芳樹は慣れ親しんでいた。感覚が鈍くなっていた。里紗の外出先が、専門学校ではないことに、気づくのにも時間がかかった。気づくチャンスはいくらでもあったのに。アルバイトが本格的に始まる際に、自分が里紗の扶養に入っていることを知った。固定収入が入っている。里紗は就職をしていた。
「学校は?」
 口にした質問に、里紗は固まっていた。芳樹の方は見なかった。その反応が答えだと思って、聞いてはいけないことだったのだともわかった。里紗は首を振った。里紗は二十代後半になっていた。
「終わりにしたんだよ。言ってなくてごめんね」
 芳樹は呆気にとられていた。予想はついても、頭が真っ白になった。どうしてと問いかけることもできない。答えは自分が知っている。自分のせいだ。働かなければ、誰かを支えて生きていくことなどできない。この世界はそのようにできている。夢を見ていられるのは、自分のことだけを考えていればいい、人生のわずかな間だけだ。

  〇

 この動画は再生できません。 芳生は画面に映る文字列を凝視した。呼吸を止めて、深く吸った。マウスを動かして別の動画にポインターを合わせる。サムネイル表示は黒く塗りつぶされていた。同じ文字列が表示されることをわかりつつ、震える指先でひとつひとつの動画を開いていった。
 何年か前に、動画投稿サイトに掲載されていた映画解説動画が一斉に削除されたことがあった。いわゆるファスト動画という、映画の映像等を無許可で使用した動画が、著作権の侵害で訴えられ、逮捕者も出る騒ぎになった。里紗も事件を知っており、すでに動画投稿を始めており、ネタバレをせず、映画の魅力を伝えることに注力した。映画を観る人がひとりでも増えればいい。そう願って投稿した。視聴者からの反応も好印象のものが多く、安心しきっていた。
 投稿サイトからのメッセージには、権利侵害の通報があったためだと書かれていた。不服がある人のための窓口も紹介されていた。クリックは、結局しなかった。身体からは力が抜けて、背もたれに上半身を預けた。腰を痛める姿勢だと思っても、身体を動かそうとは思えなかった。窓の外では夕日の名残の赤色が徐々に薄らいでいた。意識を向けるたびに、外からの光量が減り、部屋の明かりの方が強くなる。
「ひどいな」
 つぶやいたら、目の端が滲んだ。言葉が刺激していた。
「どうしてよっくんが泣いてるの」
 里紗が後ろから声を掛けてきた。
「泣いてないよ」
「泣いてるよ。声が震えているし」
 里紗は隣に立って、芳樹のマウスを握る手に触れた。手にしていたマグカップが机に置かれる。ミルクティに半分ほど満たされていた。里紗の声は落ち着いている。帰ってきて、暗い自室でスクリーンを眺めているときも、里紗はすでに泣いていなかった。終わっちゃった、とつぶやいて、力なく微笑んでいた。
「好き勝手言ってた罰だね、これは」
 マウスを奪って、画面を閉じた。動画投稿サイトから、デスクトップに切り替わる。大きな月の画像だ。その月の半身をなぞるように、アイコンが並んでいる。
「動画は、復活させた方がいい。こんなの、何かの間違いだよ。違法にならないようにあれだけ注意していたのだから」
 芳樹は手に力がこもった。机の上で拳になった。
「もういいよ。どのみち、最近疲れてきてもいたし。真剣にやり過ぎちゃった」
「真剣なのは、悪いことじゃない」
「良い悪いの問題でもないよ」
 里紗はカップを手にした。
「動画作るの、結構楽しかったよ。ひとりで部屋にいるのに、話しているとだれかの顔が浮かんでくるんだ。その人に向けて、自分が感じたこととか、わかったことを伝えていく。どんどん本心が言えるようになった。けど、同じ心の片隅でこうも思ったよ。口が悪くなったなって。よっくんも聞いてて思ったでしょう?」
 里紗の変化には、気づいていた。最初の録音は静かなもので、照れも混じっていた。防音に注意したのはいつからだっただろう。知り合いの、実際に映画に携わっている知り合いの作品の評価を、聞きたくないとも思ってしまった。どれも事実だ。言うわけにはいかないと、封印していた事実だった。
「本心なんて、さらけだしてもいいことなんかないんだよ」
 触らせてと言われて、芳樹は立ち上がった。里紗は椅子に座らず、パソコンの電源を落とした。暗くなったスクリーンに、二人分の人影が頼りなく立ち尽くしていた。

 最後に自家用車の助手席に乗ったのは何年前だっただろう。思い出そうとしたけれど、意外と上手くいかなかった。
 高層ビルは早々に見かけなくなり、まばらな家と田畑が視界を埋め尽くす。窓の外の景色は、高速に乗ってから飛ぶように流れていった。ワンボックスを運転しているのは長谷川さんだった。助手席には芳樹が座り、後部座席は倒されて、上に段ボールが詰め込まれている。
「佐原くん、東京の生まれでしょう? この辺の景色を見てびっくりしていないかい?」
 運転席の長谷川さんが横を見る。運転しない芳樹からすると、その振り向きの方が怖い。道は空いていたけれど、人の歩みと比べたら文字通り高速だ。
「いえ、東京といっても外れの方なので。似たようなものですよ」
「謙遜しますね」
 答えに窮して、苦笑いをした。長谷川さんはもう前を向いていた。
「私はね、子どもの頃は東京に出たくて仕方なかったんですよ。家の周りには、何もありませんでしたから」
 小劇場の片づけは今日の午前中に行われた。捨てるものは業者に頼んで回収し、長谷川さんの判断で、残りのものはワンボックスに詰めた。実家の蔵に保管するのだという。付き添いとして、芳樹は指名された。他のスタッフや、有志できた元アルバイトの人も来たがっていたけれど、載せられる人が限られているからと長谷川さんが言い張り、一番年の若い芳樹が選んだのだった。
「もっとも、今振り返ればまだ、めぐまれていました。電車一本で東京まで逃げることができたんですから」
 視線の先には、高速道路の左側を並走する新幹線の橋梁があった。灰色の巨大な建造物が、青く霞む山峰を背景に、延々と前へ延びていく。
「佐原くん、御実家と仲はいいですか?」
「家ですか。年末年始にあいさつに行ったりはしますけど」
「十分ですよ。私は去年、三十年ぶりに帰省しましたよ」
 三十年。芳樹の年齢と同じ月日であることに、長谷川さんは気づいているのだろうか。そんなに、と芳樹はつぶやいて、その後言葉が続かなかった。
「手紙や電話くらいは、交わしていましたけどね。結婚したときも、電話で済ませました。向こうも私をほとんどいないものとして扱っていると思いましてね。でも、帰っていったらごく普通に、おかえりと言われましたよ。蔵を使いたいっていう、都合の良い申し出も受け入れてくれました。思っていたよりずっと、親切な人たちでした。ずっと、そうだったんでしょうね。私が気づいていなかっただけで」
 ジャンクションに差し掛かり、右へと急なカーブが続く。新幹線は離れていった。彼らは上越や北陸へと向かう。僕らは群馬の中心へと向かっている。
「新しいお店のことも知っているんですね」
「そうです。必ず行くって言われましたよ。そういわれたら、開かざるを得ない」
 間があって、長谷川さんを振り向くと、声を出さずに笑っていた。
 高速道路を抜けて、車は長谷川さんの実家に到着した。広い庭を持つ日本家屋だった。長谷川さんの父母が玄関で待ち合わせており、手を差し出して、ワンボックスを誘導した。長谷川さんと気軽にあいさつをして、芳樹にも同じように声を掛けてくれた。ご両親は見るからに穏やかで、細めた目は長谷川さんによく似ていた。
 小劇場で使用していた上映道具は、ひとつひとつ布に巻かれていた。場所もないのになんで持っていくのか。気になりはしたが、聞かなかった。問い詰めるほどのことでもない。長谷川さんを労わりながら、芳樹が力を入れて運んでいく。スタッフたちの尽力もあって、段ボールは積みやすい大きさと重さに整理されていた。見た目よりも、ずっと作業は早く終わった。
 ひと段落して、いただいた麦茶を飲みながら、縁台で休憩をした。四月になって、桜がこの庭にも咲き誇り、節くれだった枝に薄い紅が差している。
「お菓子を作るなんて、できたんですね。教えてくれてもよかったのに」
 雑談のひとつとして芳樹は口にした。長谷川さんはくつくつと笑いながら、首を横に振った。
「私の趣味じゃないですよ。家内のです」
 会ったことはないが、写真では見たことがあった。長谷川さんのスマートフォンの待ち受け画面に、今も収まっているはずだ。画面の中の奥さんは、白い帽子を目深に被り、いつも長谷川さんに微笑みかけていた。
「ケーキを焼きたいらしくてね。今度は私の番だと、意気込んでいますよ」
「私の番?」
「ええ、今までは私のわがままを聞く番。私は夢を叶えて、無事に、といえるかわかりませんが、やり切るところまでやって、終わりを迎えました。だから、今度は家内の夢を叶える番なんです。私が長いことやってましたからね、あいつもなかなか続ける気ですよ」
 長谷川さんが笑って言う。芳樹もあいまいに笑って、吐息が麦茶の水面を揺らした。芳樹の影が一瞬乱れて、また戻る。何事もなかったかのように。
「ところで芳樹くん。君はまだ仕事を探している途中なんですよね」
 長谷川さんが言った。桜の花びらが彼らの前をゆっくりと散っていく。
「あの道具はしばらく、私が保管しておきます。まだまだ十分、使えます」
 店長は芳樹をまじまじと見つめていた。言わんとすることはなんとなくわかった。芳樹は想像に身を固くする。
「僕、ですか?」
「ええ」
「ただのバイトですよ。お金もないし、経験もないし」
「もちろん、資金は必要です。私に財力があればいいんですが、あいにくそれもかなわない。しかしそれよりも、大事なのは気持ちです。もしも君に、その気があるなら、稼げるだけ稼いでください。私の目が黒いうちは、機材はきれいに保管しておきます」
 冗談かと思ったが、真顔を向けられて、言うことがなくなった。麦茶はすでになくなって、口につけたガラスの縁の湿り気にすがった。
「どうして僕なんですか?」
 映画には触れてきた。人より少し多く見てきた。演じる側になるのは早々に諦めた。里紗のような交流も思いつかなかった。自分はいつも見ているだけだ。そのくらいの距離感が、一番いい。これ以上傷つかない。これ以上誰も傷つけたくない。
「君が映画を好きだからですよ。他に理由が要りますか。好きでもない人に扱われるよりよっぽどいい」
 長谷川さんは相変わらず穏やかな目をしていた。穏やかだが、強い瞳だ。その瞳に見せられて、芳樹の頭の中を飛び回っていた言葉たちは散り散りになっていった。

   〇

 冷蔵庫を開くと、甘い牛乳の香りがした。ラップをかぶせた耐熱容器に、淡い黄色のプリンが詰まっている。二つの小皿に落として、しばらく眺めた。
「固まってる、ほんとに」
「おめでとう」
 芳樹の感嘆に、里紗の声が重なった。
「部屋にいるのかと思ってた」
「キッチンからがさごそ音が聞こえたもので。どんな泥棒かなと」
 里紗がプリンを覗きながら言った。
「芳樹がスイーツなんて珍しいね」
「作り方を小劇場の長谷川さんに教えてもらったんだ。正確には、あの人の奥さんだけど」
「そういえば、お店を始めるって言ってたね。ていうか、だったら普通買ってこない?」
「まだ営業始まってないんだよ。それに、自分で作ってみたくなったから」
「よっくんが。へええ」
 ひとしきり感心したあとに、「食べていい?」と里紗は続けた。二人で食べることにして、テーブルに移動する。なんとなく仕草が仰々しくなった。一品だけの試食会。お互いのスプーンを出して、せっかくだからとティーバッグの紅茶も用意した。ティーバッグでも、あなどれない香りがあたりにふくらんだ。
「ああ、ちゃんと美味しい」
 ひとくち食べた里紗が言った。吸い込まれるように、生地が口に運ばれていく。落ち着いた表情と声色だった。
「食べないの?」
 里紗に尋ねられて、芳樹はハッとする。
「いや、なんか人に食べてもらうの初めてで。こんな感じかって」
「なにそれ、どんな感じ?」
「うれしいような、恥ずかしいような」
 言葉がまとまらなくて、ごまかすようにプリンを運んだ。カラメルのはっきりした甘味が転がり、奥から淡い生地の甘味が現れる。それぞれの甘味は違う。違うものが柔らかな食感の下で、ひとつの連なりをもっている。
「止まって」
 里紗が言って、芳樹は手を止めた。フラッシュと、カメラの音が鳴る。スマートフォンを構えていた。
「撮ったの?」
「うん。いい感じ」
 見せられた写真は、プリンに焦点が当たっていた。芳樹は遠景で、強くぼかしが掛かっている。
「今、部屋着なのに」
「そんなの見えないよ。ね、これ動画に使っていい?」
 驚かされることには慣れているつもりだったが、あっけなく突き破られた。
「使い道がわからないんだけど」
「たとえばスイーツづくりの動画とか。こんなのできましたーって感じで載せてみたいの。ね、初めてみない? やり方とか仕組みとか、私ならいろいろ教えてあげられるから」
「人に見せたくてやったわけじゃないよ」
「見せたくないと思ってたわけでもないでしょう?」
 とがらせていた芳樹の口が、そのまま開いた。ぽかんと言うにふさわしい開き方だった。そんな屁理屈を、と言いかけて、続きはこみあげてきた笑いにかき消された。手のひらを目に当てて、溜息をひとつこぼした。
「次は僕の番、か」
 里紗が首を傾げていた。説明をしようとして、面倒になって天井を仰いだ。蛍光灯が乱暴に芳樹たちを照らしている。
「もしもやったら、助けてくれる?」
「もちろんだよ」
 テーブルの上にふたつの小皿が並んでいる。プリンの食べ心地を舌に残しながら、そこに並べるものを思い浮かべた。ささやかで小さな、新しい夢だった。

(了)


この小説は第五稿で完成し、地元文芸賞に送りました。

落選と判明したら公開します。