【歴史】株式会社と国債によって世界を変えた王家の話
株式会社と国債の経緯と顛末を、オランダをベースに簡単にまとめます。
前回、前々回からの続きであり、三部作の完結記事です。
個別でも読めますが、連続して読むとより楽しくなります。
前回
前々回
カトリックからの解放
中世末期のヨーロッパ世界では、キリスト教カトリックの影響力に抗う人々と、カトリックと結びついた王族を始めとする権力者との戦いが各地で繰り広げられていた。宗教改革である。
アジア貿易で争っていたイギリスもオランダも、国内でカトリックに対する反発が強まっていたことに変わりはない。
ネーデルラント(現在のオランダ、当時のオランダを含む広い地域)では、スペイン王フェリペ2世によるカトリックに基づいた専制政治の影響が大きかった。
これに反抗するために、市民はスイスのカルヴァンによる新教プロテスタント(カルヴァン派)と結びつき、オランダ独立戦争を開始した。
この戦争の最高指導者となったのがオラニエ公ウィレム(1世)である。1581年に「ネーデルラント連邦共和国」の独立を宣言し、初代オランダ総督となったが、3年後の1584年にカトリック側の刺客によって暗殺される。
オランダ独立戦争は、17世紀に入って休戦状態となる。
この間、スペインはオランダ独立戦争に介入したイギリスを制裁しようとして返り討ちに遭い(無敵艦隊の敗戦)、オランダとイギリスの東インド会社設立による貿易競争が始まることは、前々回に話したとおり。世界初の株式会社は、オランダにしてみれば独立への機運を高める資力となった。
1648年にはウェストファリア条約でネーデルラント連邦共和国が国際的に承認される。
ちなみにこのネーデルラント連邦共和国のことも日本語ではオランダと呼んでいる。これは日本にたどりついたポルトガル人がこの連邦共和国を指して「オランダ」と呼んでいたことに由来する。そもそも現在でもオランダの正式名称は「ネーデルラント」である。
この条約自体はドイツの三十年戦争(これもやはりカトリックとプロテスタントの争いが端緒)の講和条約だったが、オランダ独立戦争の終結を意味するものでもあった。
血が流れなかった理由
独立したからといって、争いは途絶えなかった。
独立から約20年後、フランス王のルイ14世がスペイン領ネーデルラント(南ネーデルラント、現在のベルギー)の継承権を主張してスペインと戦争を始めた。ネーデルラント継承戦争(フランドル戦争)である。
この戦争にオランダ軍はスペインを支援して出兵する。これにより講和へと持ち込めたわけだが、代わりにルイ14世の恨みを買うことになる。
スペインからの独立戦争のときには協力し合ったイギリスも、このときにはフランス側に回り、オランダを潰しにかかっていた。
もっとも、この加担は当時のイギリス国王チャールズ2世がカトリックを信仰していたことによる影響が大きく、このことが巡り巡って名誉革命に繋がってくる。
このオランダ侵略戦争の際、オランダ側で防衛線を敷いたのは、オラニエ公ウィレム3世。初代総督の1世の末子の孫である。
南ネーデルラントは失ったものの、抵抗して独立を存続させたウィレム3世は、10年後の1688年にイギリスへと渡る。
ウィレム3世はオランダから1万4000人の軍勢を引き連れていた。もちろん戦いに備えてである。ウィレム3世は、当時の国王ジェームズ2世が抵抗すると予想していた。
しかし、実際には血が一滴も流れないまま、国王の席は明け渡された。
イギリスの国民が、絶対王政の総本山ともいえるフランスに味方するようなカトリックの国王を支持しなかったからだ。
国民に見放されたジェームズ2世は追放され、フランスに亡命する。
ウィリアム3世はウィリアム3世として国王として即位、妻であり、ジェームズ2世の娘でもあるメアリー2世と共同統治が始まった。
オランダの衰退
晴れてプロテスタントを迎え入れたイギリスで、ウィリアム3世は財政改革に乗り出す。
前回の話のとおり、その改革はフランスに対抗するための力をつけるためのものだ。信用力に裏打ちされた国債を発行することで、イギリスは力をつけていった。
1701年には、ルイ14世が孫のフェリペ3世をスペイン王の継承者としようとしたことに端を発して、フランス・スペインの連合軍と、イギリスとオランダを含む連合国との戦争が始まった。スペイン継承戦争である。
この戦争には宗教的な対立はない。18世紀に入ると、戦争についての大義名分が変革し、強大化した国家間同士の主権を巡る争いが繰り広げられるようになった。
力による力のための戦争が、後々の世まで続く発端となった、この戦争の終結をウィリアム3世が見ることはなかった。
1702年、ウィリアム3世は事故で亡くなる。メアリー2世の妹アンが女王に即位して戦争が継続し、終結後、ユトレヒト条約でイギリスの海外発展が約束される。
一方、オランダは海軍の軍縮が決定した。新たな総督は半世紀にわたり立てられず、1794年には革命下のフランスによって再び侵攻される。
こうしてオランダは歴史から一旦消えることになった。
しかし、オランダが衰退する一方で、ウィリアム3世の手によって再興したイギリスが、オランダを超え、フランスをも打倒する力を身に着けた。
各国の王家が打倒される姿に刺激を受けたフランス国民は、王侯貴族優位の社会を打倒するべく、フランス革命を開始した。
守り続けたもの
革命には血が流れ、ナポレオンによってヨーロッパ各地に争いは飛び火した。
その混乱が、1815年に終結する。ナポレオン戦争後の混乱したヨーロッパ世界に、秩序をもたらすための、ウィーン会議が始まった。
フランスに侵攻されたオランダも、ここでようやく主権を取り戻す。ネーデルラント連合王国の誕生、その当主として選ばれたのは、200年以上の長きにわたってオランダを牽引してきたオラニエ公家だった。
この国王の系譜は、現オランダ国王であるウィレム=アレクサンダーまで続いている。
現在のオランダの国章は、ネーデルラント連邦共和国を示す「赤」とオラニエ公家を示す「青」を組み合わせている。
青地に刻まれた「JE MAINTIENDRAI」はオラニエ公家の紋章に由来する。
「我、守り続けん」、その意味するところは歴史に表れている。
参考文献
≪webサイト≫
「世界史の窓」
「オランダとわたし」
(在日オランダ大使館・領事館・名誉領事館のウェブサイト)
王室 | 王国について | Orandatowatashi.nl
おわりに
株式会社と国債を調べたらオランダ王室のルーツにたどりついたので、記事にしました。
この「ノート」カテゴリでは雑多な調べものの中から好きにテーマを選んで整理して紹介しています。
調べきれていない点もありますので、大きな誤りなどはご指摘いただけると助かります。